ガチ勢とは一体何者なのか。エンジョイ勢とは一体何者なのか。

『ガチ勢エンジョイ勢論争』…

 

それはありとあらゆるジャンルの対戦ゲーマー達が何十年と議論してきた宗教戦争である。

 

未だにあちこちで燃えてるのを見る度にグンニョリするので見解を文章にまとめとく事にする。

 

≪目次≫

①「ガチ」ってどういう意味?

②真剣勝負は何故必要か

③エンジョイ勢とは何者なのか?

④「高い勝率を保持すること」がガチ勢なのか、はたまた「大会に照準を合わせて結果を残す」のがガチ勢なのか

⑤「強キャラを使わない」のは「ガチ勢でない」のか?

⑥本気と真剣の違いについて

⑦ガチ勢が向かうべき先は

 


①ガチって言葉はどういう意味?

 

まず「ガチ勢」の『ガチ』とは「ガチンコ」の『ガチ』であるということは皆さん御周知の通りだろう。

 

それでは「ガチンコ」の語源は何なのか?

 

所説あるが、Wikipediaからの情報を鵜呑みにしてみると、相撲で真剣勝負の時に正面からぶつかり合う音の擬音語であり、そのまま『真剣勝負』の際の隠語として使われたようだ。

 

なるほど、『真剣』という言葉に『ガチ』とルビを振られている場面を頻繁に見るに大きく間違ってはないだろう。


では『真剣勝負』とは何なのか?

 

『真剣勝負』
意味:遊び半分ではなく、本気で勝ち負けを争って、勝者を決定すること。また、物事に、まじめに全力で対処すること。もとの意味は、竹刀しないや木刀ではなく、本物の刀で斬りあいをして戦うということ。-goo国語辞書


命のやり取りをするぐらいのやり取りを『真剣』と言うらしい。


しかし『真剣』という言葉や概念は刀文化のある日本ぐらいのものであろう。

 

それでは外国、例えばアメリカではこの『真剣』にあたる言葉が無いかと言われれば、実は存在する。

 

その言葉は『shoot』。すなわち銃撃である。

 

面白いのはこの『命がけなくらい本気で取り組む』という言葉がそれぞれの国でポピュラーな兵器絡みの言葉なのだ。


では何故「鎖鎌」や「鉄扇」ではダメだったのか?

 

これは単純にポピュラーかどうかの問題だけだろう。
言葉として一般化されるには共通認識が非常に重要だ。


では何故「大砲」やら「爆弾」、はたまた「核兵器」にならなかったか?

 

推測するに言葉が生まれたであろう時代が絡んでいる他、「一人で扱える代物かどうか」が原因ではないかと考えている。


『真剣』は集団ではなく、個人の意思や姿勢を示す言葉だからだ。

 


では仮に真剣勝負の場に鎖鎌を持って現れた場合、それは『真剣』では無いと言えるのか?


この事には大して文句を言う人はほとんどいないのではないだろうか。

 

今から命のやり取りが始まるというのに、相手の武器を指して「卑怯だ!」と言う人がいるだろうか。

 

いてもいいとは思うが、それなら最初から『使用可能武器は日本刀のみ、刃渡りは4尺までとする』とか通告しといて欲しいものである。

 

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『真剣勝負』は自分の特性をフルに活かした勝負だ


つまり『真剣勝負』とは「命のやり取りをするにあたり、お互いに同意の基で定めたルール内で、創意工夫や準備を凝らし、闘うこと」で解釈していいのではないだろうかと考えている。

 

雪山でスナイパー対決が始まるのも真剣勝負だし、小刀の二刀流で斧を持った大男と闘うのもそれは真剣勝負だろう。

 

 

②真剣勝負は何故必要なのか?

 

さて、前項では真剣勝負の概念について言及したが、一つ大事な大事な要素が抜けている。


もう一度真剣勝負の意味をおさらいしてみよう。

 

『真剣勝負』
意味:遊び半分ではなく、本気で勝ち負けを争って、勝者を決定すること。また、物事に、まじめに全力で対処すること。もとの意味は、竹刀しないや木刀ではなく、本物の刀で斬りあいをして戦うということ。-goo国語辞書

 

そう、真剣勝負は必ず勝敗を決定しなければいけないのだ。

 

真剣勝負の『真剣』の要素については先の項で示せたと思うが、残る『勝負』についてはまだ宙に浮かんだままであるので解析していきたい。

 

勝負に「勝つ」というのは何かを得ることであり、「負ける」という事は何かを失うことである。

 

Win-Winという言葉があるように、全員が得をするような状態は全員が勝っているし、逆に共倒れして全員が負けている場合もある。

 

なので『勝負』をするためには必ず何かを得たり何かを失ったりする必要がある。

 

 

ではその時互いに賭けている物は一体何なのか?


実際に互いの命のやり取りをする場合は実に分かりやすい。


死ぬ事は敗北であり、生き残れれば勝利である。

 

しかし、必ずしも命を落とさなければ敗北では無いというわけではないのも明らかだろう。


降参システムも往々にして採用されるのでに軽傷で済むという事は往々にしてあり得る。

 

現代の日本では、仇討ちという風習も無くなり、対面して命のやり取りをするなんてことはほとんど無い。

 


例えば命のやり取りをしていない、現代で「真剣勝負」と言われる場で考えてみよう。

 

代表的なのはオリンピックのような国際的な競技の舞台だろうか。
何ならパン職人だって真剣勝負に取り組んでいるかもしれない。

 

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真剣勝負はどんな場所でも起こっている。

 

対象は必ずしも人間だけでない。時には無機物、あるいは自分自身が対戦相手の場合もあり得る。

 

こうして様々な事例をあげると浮かび上がってきたのではないか。


真剣勝負で賭ける物、それは「自らのプライドの価値」である。

 


ここで言う『プライド』とは以前書いた「プライド分散理論」という文章中に示した『プライド』と全くの同義である。

 

mekasue.hatenablog.com


参照する文章が長すぎるのでザクっと表現すると、プライドとは生きがいみたいなもので、自信を持って生きるための承認エネルギーの源泉と定義している。

 

また、続く「世界ランク理論」の文章中でも述べているが、己のプライドを確立し維持していくには必ず一定期間毎の客観的な指標が必要となる。

 

mekasue.hatenablog.com


真剣勝負はそんなプライドの価値を維持するために必要な通過儀礼と言ってもいい。

 

真剣勝負により自己のプライドの価値を客観的に評価することによって今、自分はどの程度の位置にいるのかを確認するのである。

 

いわば真剣勝負は自分の命に価値をつける行為そのものと言ってもいいのではないだろうか。

 

 

③エンジョイ勢とは何者なのか

 

ここまで真剣勝負を挑む者たち、すなわち「ガチ勢」の行動原理を考察してきたが、現代には対極とも呼べる概念がある。

 

それが「エンジョイ勢」である。

 

今回の問題として挙げた「ガチ勢・エンジョイ勢論争」では大体以下のような文言が飛び交う

 

「ガチ勢はガチ勢でやれ」
「エンジョイ勢ならやめろ」
「何マジになってるんだ」
「ゲームは楽しく!」

etc...

 


それでは『エンジョイ勢』について言及していこう。


『エンジョイ勢』はガチ勢の逆、すなわち真剣勝負を挑まない、すなわちその物事で自分の価値を評価しようと考えていない勢力である。


別にこの事自体に特段問題があるわけではない。

 

何故ならそもそものところで真剣勝負を挑む必要が全く無い人達が存在するからだ。

 

例えばそもそもその分野でプライドを確立しようと考えていない人達。

 

様子を見に来てるぐらいの話なのでそりゃ真剣勝負は成り立たない。
こういう人々は既に別のプライドを軸に生活している。

 

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同じ価値観やモチベーションが必要となる。

 

例えば根拠の無い自信を抱えている人達。

 

根拠の無い自信は基本的に幼い頃から培われた自己肯定感を基に構成されている。
または、自身のプライドが瓦解するのを本能的に恐れて評価をするのを自分自身が避けている場合がある。


そんなエンジョイ勢とガチ勢とは当然噛み合わない。


片方は魂を差し出しているにも関わらず、片方は何も賭けていないのだから真剣勝負等初めから成立していない。

 

その上でガチ勢側が文句を言えば当然エンジョイ勢側は困惑する。

 

一方でエンジョイ勢側が何も賭けていないにも関わらず「勝負」について言及するのはお角違いである。

 

その認識の差が論争を呼ぶのだ。

 

 

④「高い勝率を保持すること」がガチ勢なのか、はたまた「大会に照準を合わせて結果を残す」のがガチ勢なのか。

 

結論としては両方正しいと考えている。

 

なんなら実戦中に魅せプレイをすることに真剣に取り組んでいるならばそれはそれでガチ勢である。


これは『真剣勝負』に賭けるプライドを何処に割り振っているかという話になる。

 

例えば、勝率を重きに置いている人と、大会結果に重きを置いている人の野試合では同じガチ勢ながら実際のところ『真剣勝負』は成立していない。


互いに賭けているプライドの質が異なっているため、片方が勝利を手にし、片方が大会用の情報を手にしたのであれば、両者勝利してしまっているからだ。


勝率に重きを置いている人は大体大会結果にも重きを置いているので、大会での対戦であれば真剣勝負は成立するかもしれないが、ここに魅せプレイガチ勢が絡んできたらまた複雑な話になる。

 

より華麗に相手を倒した方が「勝ち」なので無作法な倒し方は「負け」だからだ。

 

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相手の勝利条件を理解しないと相手を敗北させることは出来ない。


ここもガチ勢をエンジョイ勢ととり間違えたりする論争が起こりがちなので厳しい言及をしておこう。

 

本当に相手と真剣勝負をしたいのであれば、基本的に相手がプライドを持っている土俵で闘わなければならない。

 

そんな道場破りこそが真剣勝負に飢えている貴方のすべきことである

 

自分のフィールドに引きこもっている内は真剣勝負が出来るチャンスはなかなか来ない。

 

常に真剣勝負に飢えているのであれば、過去の自分を敵にするといい。
つまり、一人用の競技をただひたすらに打ち込むのが最も簡単である。

 

仮に相手がエンジョイ勢であるならば、相手が羨ましくなるぐらい楽しそうにプレイすることで「勝つ」ことが出来るのかもしれない。

 

 

⑤「強キャラを使わない」のは「ガチ勢でない」のか?

 

先にも書いたが、『真剣』とは自分に合った道具を用いてその場の状況を踏まえて創意工夫をして戦うことであるので、必ずしも強キャラを使わないからガチ勢でないというのは見当違いだろう。

 

ましてや「強キャラ使い」=ガチ勢ではない。


何なら強キャラ使いという単語を用いているところを見るに、ガチ勢の概念を理解していないと推測する。

 

 

仮に高い勝率を追求するタイプのガチ勢や、より効率的な戦い方を探すことを追求するタイプのガチ勢が様々な検討を行った場合は、最終的に大体強キャラに落ち着くのは明らかだろう。

 

しかし、初めから「強キャラしか使わない」のはガチ勢が持つ重要な要素である創意工夫を重ねていることに反する。

 

ガチ勢は何かしらの目的・目標のために突き進んでいるのであって、強キャラを使うということ自体は目的にはなりえない。

 


では「強キャラ使い」と自称する人達は何者なのか?

 

「強キャラ使い」と自称する人達はただただ「弱い者いじめが好きな人達」であり、ただ隠れ蓑として「強キャラ使い」という言葉を使っているに過ぎない。

 

「弱い者いじめガチ勢」と積極的に言い換えていこう。

 

 

⑥本気と真剣の違いについて

 

本気は「マジ」と読み、真剣は「ガチ」と読む。

 

恐らくこの表記は偶然ではない。

 

ダルビッシュ有羽生結弦が言った「努力は嘘をつく」の本質はそこにある。

 

『努力』
意味:ある目的のために力を尽くして励むこと。 -goo国語辞書

 

すなわち、「努力」とは「本気で物事に取り組む事」であり、ここに推考は含まれない。


ただガムシャラに突き進むのが「努力」である。

 

またダルビッシュ有の言う「頭使って練習しないと」や、羽生結弦の言う「でも、無駄にはならない」の本質もそこにある。


方法の推考には必ず試行錯誤が必要不可欠であり、『真剣』に到達するための道程なのだ。

 

『本気』とはただの姿勢であり、『真剣』とは本気で創意工夫を凝らし活路を見出した先にある境地である。

 

本気でやるというのはただの前提条件に過ぎない。

 

 

⑦ガチ勢が向かうべき先は

 

今回はゲームのガチ勢に関して言及をしたが、古今東西あらゆる物事はこのガチ勢の論理で成り立っており、それによって確立されたプライドをエネルギー源として生きている。

 

物事の間には利便性の違いがあり、そこから決められる価値には大きな隔たりがある。

 

しかし本当に重要な事は真剣に取り組む姿勢が出来るか否か、ただそれだけである。

 

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今取り組んでる事に「真剣」であればそれでいい

 

物事に貴賤は確かに存在しない。

方向性が異なるだけであり、真剣に取り組む姿は常に美しい。

 


当然、中にはエンジョイ勢として生き、そのまま死んでいく人達もいるだろう。
自身の価値を観測せず、疑う事も無く一生を終えることが出来るのであればそれほど素晴らしいことは無いように思う。

 

しかし、一度気付いてしまったのであれば闘わなければならない。


貴方なりの闘いの方法を考えなければならない。

 

一人のガチ勢が行き場を失った時、その経験を軸に新天地で輝くことを期待している。