スキルは全て言語であるという言説について (スキルツリー理論とバイリンガル理論)

世の中には努力で全てを解決出来ると信じている人もいれば、才能が全てを解決すると信じている人もいる。

言い換えれば「産まれは皆平等」と信奉してる人とそれを否定する人だろうか。

 

完全に白か黒かで判断出来れば楽なんだろうが、この世にそんな物事はほとんど無いし、この才能・努力論も例外ではない。

 

ただ、競走馬の世界において一部の血統がその他全てを排斥してしまった事実や、「黒人特有のバネ」といった言葉を見るに、能力の差というのは才能による所が大きい(身分や金銭面といった産まれの差も含めて)のではないかと感じる事が多い。

 

しかしながら、努力が必要無いというのは大嘘であると確信出来る。

 

では、何が才能なのか?何が努力なのか?という事に言及しているような記事をこれまで見たこと無いので書き記しておくことにする。

 


〇スキルとは何なのか?

 

さて、スキルとは一体何なのか考えてみる。


日本語で言うところの技術だったり技能だったりするこの言葉は割とふんわりしている。

 

皆さんが想像しやすいのは科学者、プログラマー、大工や絵描き等、いわゆる「何かを作る人」が持っている技術という意味合いだろうか。


非常に緻密な作業だったり、知識を必要として、すぐに真似が出来ないような領域に取り組める能力を「スキル」と言う。

 

しかしその技術がある人が仮に独創的な物を作った時にどうなるかとなるとそれは途端に「才能」という領域の話に置き換わる。

 

この間の定義があやふやなのである。

 


まず技術とは「体系的に説明がつくもの」である。

 

分かりやすいのは絵という分野だろうか。

 

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古典はほぼ全て「何故優れているか」が研究されている。 「ブルーピリオド」より

 

例えば遠近法であったり色の選び方であったり、何故そうなってるか説明がつくものは等しく技術という枠組みに入れられる。


そして技術という説明がつくものについては極論、努力すれば習得できる可能性がある領域に入ってくる。

 

一方でどうしても説明がつかないものが存在する。

 

明らかにアンバランスな組み合わせなのにも関わらずマッチしていたり、誰も構想したことないような作品は体系的に説明が不可能であることが多い。

 

後世にそれが技術として定着するとしても、少なくともその時点で本人すら説明出来ない領域はその時点において才能の領域である。

 

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才能を簡単に説明できりゃ苦労はしない。 「ランウェイで笑って」より


すなわち、あらゆる物事において「説明出来ること」と「説明できないこと」に分解していくことで、どの要素が努力の分野であるか、どの要素が才能の分野であるかを理解することができるのだ。

 

 


では例えば「ドッジボールが上手い」を分解してみよう。

 

ドッジボールが上手い」のは何故なのか?と考えると、「ボールを投げるのが上手い」「ボールを受けるのが上手い」「位置取りが上手い」etc…といった要素が無限に存在するのが分かるだろうか。

 

ではこの内「ボールを投げるのが上手い」のは何故なのか?を考えると、「手が大きい」「腕が振れている」「適したポイントで玉を離せている」といった要素となるだろうか。

 

更に「手が大きい」のは何故だろうか?

 

恐らく両親からの遺伝的な要素が大部分を占めるだろうが、そこは確実な説明は出来ない。


この説明出来ない領域の事がいわゆる「才能」である。

 

また「腕が振れている」のは何故だろうか?


きちんと腕の先がしなるように動作してるからであろうが、その先まで遡ると「腕の使い方が器用である」といった知覚的で非言語の要素が多く含まれてくる。


この説明出来ない領域も「才能」である。

 

 


また、ここまでで「ボールを投げるのが上手い」という技術は例えば野球にも流用が可能であるということ。
逆にこの技術はサッカーに大してはほとんど意味が無いことも理解しておかなければならない。


このように明確に「才能」が存在しているのは根源と先端であり、間の部分は「技術」、すなわち努力的な領分で埋められている。

 

 

 

と、いっても全ての技術は努力次第で取得出来るのかといえばそうでは無いこともこの話で説明出来る。


先程のように技術的な要素を分解していく中で、様々な技術は根源的な細かな才能によって支えられているからだ。


また先に挙げたドッヂボールが上手い例においても、必ず全ての要素を満たしている必要性が無いことも理解しておかなければならない。


仮にボールを受けるのが下手でその体系の根源にある才能が欠けていたとしても、オフェンシブな役割に偏って携わることで「ドッジボールが上手い」部類に入ることが可能だからだ。

 

 

 

〇スキルは言語であるという言説

 

さて、前項で説明したように「スキル」とは、それを支える数多のスキルとその根底にある才能から成り立っている。

 

つまり理論上ではあるが、現状全てのスキルは体系図、いわゆるスキルツリーで表現可能であると確信している。

 

更にこの項ではそもそもスキルとは言語そのものであるという説を書き記していきたい。

 


まず、実際に言語と呼ばれる分野について、例えば「英語ができる人」というのはピンからキリまでいるのはご理解いただいているだろう。


「できる」のは挨拶か、日常会話か、専門的な話か、どの分野で話せるかそのスキルの幅は実に広い。

 

日本人でも「日本語ができるか」はピンからキリまでいるのは皆さんも実感しているだろう。


機械が苦手な人に日本語で機械の話をしても分からないし、それが文学であれ科学であれ同様である。

 

と、なれば一般的に「英語ができる」のは「英語で日常会話ができる語彙がある」というスキルを指しているのである。

 


色んな経験をしている皆々様方は「英語が出来る」と入ってきた人が本当に英語以外できなくて使い物にならなかった経験はおありだろうと思う。


如何なる話をするにしても、喋るという行為以外にその分野に関する理解が無ければ本質的な会話は不可能なので起こりうる問題である。

 

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そのスキルだけで完結するなら問題無かったりする。「映画大好きポンポさん2」より

 

以前に任天堂が「色んな分野に興味のある人材を募集している」と公言していたのはこの問題があるからに他ならないだろう。

 

通訳は最低限表面的に話者が話したい物事を理解出来ている必要性があるのである。
(同時に話者は通訳にも理解できるような語彙の範囲で説明しなければならい)

 


一方で上記の様な日本語や英語ではなく、もっと直感的な言語も存在する。


そんな直感的な共通言語の最たる物は音楽だったり美醜だったり本質的に五感で感じるものである。

 

何故これらが一般的な共通言語足り得ているかというと、それは非常に広い非言語的な領域と直接関連しており、万人が何らかの形で各々に理解可能な物であるからに他ならない。

 


ではそういった本質的に五感で感じるもの以外は共通言語になえりえないかと言われれば決してそうではない。


例えば数学。

特に言葉を併記しない場合でも数式で相手に問いかけることは可能であるし、それは科学や物理学でも同様である。

 

これらを掘り進めていけば、もっともっと深いような分野でもいくらでも共通言語を作ることはできるが、深く掘るに従ってその「言語」を理解出来る者は確実に減ってくる。

 

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共通の道を行く者にしか通じない言語がある。 「天地明察」より


更にその言語が誰にも理解できない領域まで来ると、それは「才能」の領域に到達することとなる。

 

日本語や英語といった話すための言語は「スキル」として、非常に柔軟性に富み、なおかつ対象の範囲が広いがため人々に「言語」の代表格として認識されているに過ぎず、古今東西様々なスキルは全てローカルな「言語」であると言えるのである。

 

 

 

〇スキルの価値とは何か?

 

そもそもの話となってしまうが、何故人はスキルを得ようとするのかと考えると、何らかの欲求から来ているのが常であろう。

 

〇〇を見てみたい。△△を作りたい。


何ならお金を稼ぎたいだったり異性にモテたいという欲求からスキルを会得しようとするのが最も一般的だろうか。

 

全て手に入る状態であれば特にスキルを磨く必要性はありはしない。

 

本当に一部の超越者を除いて必ずそこには欲求が存在している

 


ではスキルにおける価値とはその希少性ではないかと思うだろうが、案外単純なものではない。

 

「価値」とはそれを判断する者が理解出来なければそもそも測ることが出来ないからだ。

 

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「価値」で世界は量られる 「メイドインアビス」より


以前じーくどらむす氏が書き記された『ブルシット・ジョブ(クソどうでもいい仕事)』に関する考察に分かりやすく記されていたので、そこから参照させていただくとすれば、

 

「人間は『実際の価値』にお金を支払っているのではなく、「価値がありそうに見える」ことにお金が支払われているのだ。」

 

という一文が最も的確に表現されているように思う。

 

note.com

 


こうして極一部の新たな価値を創造しようとする連中以外は、自身にも相手にも理解しやすい価値を求め動く。

 

「分かりやすい価値」とは何か。


「美醜」や「快感」、すなわち先にも上げた非言語領域と直接繋がっている領域がそれであり、容姿であったり絵、音楽、性産業等がそこに含まれる。

 

ただそれらが多大な金銭を個人にもたらすかというと極めて難しい。

 

 

この辺の言及については以前書いたプライド分散理論や世界ランク理論といった文章に記させていただいたが、上位約10%のスキルを持つ人間が承認というエネルギーを得られる一方で、個人単位だととてもじゃないが10%程度の領域では生活に十分な金銭を発生させることが出来ない状態となっている。


昔は本質的な価値と金銭が一致していた可能性があるが、資本主義社会が加速した現代では本質的価値と金銭的価値がほとんど一致することなど滅多にない。


むしろ、その本質的な価値がどんな人にも理解されるが故に買い叩きに会い、金銭的な価値の維持が難しくなっている。

 

結果的により分かりやすい価値に携わる人間の大部分が金銭的には大損を被る構図になってしまうのだ。

 

mekasue.hatenablog.com

 

mekasue.hatenablog.com

 

 

 

〇スキルツリー理論

 

先に書いた通り、全てのスキルは体系化してしていると確信している。

 

ただ、このスキルツリーの形は時代によって大きく変わり続けている。

 

技術自体の理論が時代を反映して常に書き変わっている上に、その技術を行使するための道具も常に進化を続けているためだ。

 

 

完全に「枯れた技術」の根元の体系の変化はほとんど無いが、逆にその枯れた技術を習得するのを余計なコストと考える者達がその枝葉を取り除こうと日々努力をしている。


そんな状態もあり、例えば学生諸子に「このスキルを習得すればこの先のスキルを取得できる」と断言するのは実質不可能である。

 

複雑なスキルツリーの先に立っている者達も無駄なくスキルを取得してそのスキルツリーを為しているか?と問われれば全員が「ノー」と言うだろう。
(ある程度決め打ちした者は多いだろうが)

 

自分が持たない他人のスキルの根源は感知は難しい故に、誰もこのスキルツリーの全貌を理解していない。

 

時代の流れの中、誰もが、たまたま、スキルを磨く中でそのスキルツリーを構築しているのだ。

 

 


ではそんなブラックボックス的で理解不能なスキルツリーが存在するとしてどうするべきなのか?

 

正直なところ、そんな厄介なものを完全に無視して好き放題生活できれば一番いいのだが、如何せんこの資本主義社会が継続する内はどうにか金策をしなくてはならない。


前々項に書いた通り、誰もが理解可能な領域のスキルは理解されやすい故に金銭が発生しづらい。


金銭を発生させるには理解できないが価値がありそうなスキルの取得に辿り着くしかない。

 

ただ、そんな都合の良いスキルの領域は現状全て独占されてしまっており、そこに住む人間は大抵ろくでもないので大変である。(金融系、健康食品系、etc.)

 

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ろくでもない仕事にはちゃんとろくでもない人がいる 「ザ・ファブル」より


別にそんなろくでもない人間達に迎合できるのであればそれはそれで問題無いだろう。

 

ただ、ここまで書いてきた文章を読んでいるような人間は多分それが嫌な人種しかいないように思う。

 


誰もいないようなブルーオーシャンでのんびり過ごすのを目指すとなれば、スキルの自然発生を願うしかない。


自然発生といっても寝てたら突然生まれてくるのではなく、偶発的な可能性に賭けるのである。

 

前述の通り、スキルツリーは常に流動的に形を変え続けている。
そのため、ある日突然異なるスキル同士にシナジーが発生して珍しいスキルが発生することがある。

 

この新たに発生したスキルは才能の領域ではない。
元から存在していたものの、その有用性に誰も認められなかったのだが突然スポットライトが当たった状態である。

 

ただし、近しいスキル同士の組み合わせの場合は多くの人が同時にスキルに辿り着くことになるのでアドバンテージが少ない。


常日頃多様な分野において食指を伸ばしている必要性があるだろう。
(結局はプライド分散理論が重要であるという話になってしまう。)

 


他の方法として、理解できない勢力が多数を占める異世界的な土地で既に一部で一般的になっているスキルを活用すると似た現象を起こすことが可能だ。

 

また、何の因果が似たようなブームみたいなものはグルグルと世の中を周っているため、その法則を見出せば狙って発生させることが出来るかもしれない。

 

 

 

バイリンガル理論

 

ここから先は才能の領域の話である。

 

特定の才能を持つ人間は気の遠くなるような反復練習を通してそのスキルを発揮するためのコスト(体力・やる気・時間等)を極めて少なくすることが可能である。

 

この辺は登大遊氏の「論理的思考の放棄」というタイトルの2007年のブログに詳細に記されている。

 

softether.hatenadiary.org

 

詠唱時間の短縮は最終的には無意識の領域に辿り着く。

 

この話を人にする際に例に挙げるのは、幼い時から二か国語以上を常に使う環境に晒されてる中で培われたバイリンガルや、音楽による英才教育によって培われた絶対音感である。

 

会話であれば、最大で「言葉を聞く」⇒「文字として認識する」⇒「内容を理解する」⇒「返答を考える」⇒「文章を考える」⇒「発声する」といった6ステップを、日常的に我々が行っているような「言葉を聞く」⇒「発声する」というほぼ2ステップで可能となる。

 

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真理に到達すれば手を合わせるだけで錬成が可能となる(鋼の錬金術師より)


この無意識の領域を語る場合この2例が最も分かりやすいが、理論上は全てのスキルにおいて適応が可能であると考えられる。

 

ただし、無意識の領域に達するにはまっさらな脳みそと気の遠くなるような努力とそれに伴うモチベーションが必要となるため、多くの場合で非言語領域に直接繋がっているようなスキルに限られる。

 

通常は絶対音感といったスキルの領域までは発現せず、「あわてんぼう」であったり「感受性が強い」といった才能から来るデメリット的な発現の仕方をしていると考えている。

 

登氏のようにプログラミングのスキルにおいてこれが発現するのはかなり特殊な条件が揃う必要があるだろう。
(今の時代であれば自然発生する条件はある程度揃ってるのかもしれないが)

 


よって今更バイリンガル理論に則って詠唱短縮を試みるのは間違いであると言わざるを得ない。

 

ただ、可能性があるとすればもう片方の才能の領域、すなわち先端に立つ才能に期待することである。


ただし、先端に立つ才能については、完全に未知の領域であり通常は認識も不可能と考えられる。

 

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極限まで追い詰められたオタクしか見えない活路は確かにある。 「映画大好きポンポさん」より

 

 

以上。

 

まとめると、才能とかいう知覚不可能なものの認識はそこそこに、手を変え品を変え努力しましょうという話にしかならない。