損得回路 30代限界説に関する考察

以前スピリチュアルなブログを書いた事がある。

(大体スピリチュアルな事を書いているという指摘もある。)

 

mekasue.hatenablog.com

 

要約すると「不思議と神と名のつく物は基本的に『与える』存在であり、悪魔は逆である。ただし、その与えてくれた存在が本当に神だったか悪魔だったかは主観でしかないし、後々考えると主観でも逆転するかもしれない」という話である。



そもそものところ、僕がこのブログを書き始めた理由は、日常生活で話す事についていちいち最初から話すと長すぎるから「詳しくはこのブログを読んどいてくれ!!」と言うためであるのだが、人に負担を投げているにも関わらず、内容や単語の使い方が明らかにうさんくさ過ぎる文章を読ませるのも忍びない。

 

実際のところ別に雰囲気で僕の話を聞き流せば全く読む必要は無いのだが、たまに奇特な人が読んでくれる事もある。

 

そんな時にいざブログを見て、スピリチュアル過ぎるタイトルだと不安になる事だろうと思う。



と、いうわけでその時の記事よりもう少し解像度の高い話を書いておく事にする。

 

以前書いた記事は日常生活における『神』という概念を整理するための物であり、例え話がしやすいように回りくどく書いているが、話の芯は「登場する人の動き方とか物事は全て損得という概念に置き換えられる」という話である。

 

そしてそんな人が持つ習性を私は「損得回路」と呼んでいる。



・得とは何か

 

 得という概念を分解に分解を重ねると最終的に五感を揺さぶる感覚、あるいは「楽しい」または「気持ちいい」という感覚に収束すると考えている。

 

「美味しい」も「いいにおい」も「気持ちいい」という事にしたら五感に関わる部分も「気持ちいい」だけで良いかもしれない。

 

得として手に入れる物の最終到達点は決して金銭等ではない。

 

金銭も結局は何らかの欲求を満たす手段でしかなく、得の形は人の数だけ存在する。

(企業活動といった集団での活動は活動は全体の得を満たすための手段である金銭が最終到達点という事になっているが、今回は個人に限定する)



ただし、ほとんどが「気持ちいい」に収束してしまう以上、得と感じる事はある程度パターンは決まっていると考えられる。



その上で言える事。

 

人間は絶対に得な事しかしない。

 

例えサイコパスであろうがこれは100%、確実であると考えている。

 

何なら恐らく生物全てがそうである。

下手をすれば単細胞生物ですらだ。



気持ちいいと感じてるかどうかすら分からない生物ではどうか?

 

例えば、よく言われる「アリは7割が働いて3割がサボるといい、群れを縮小しても同様の挙動を見せる。得だと感じる行動しかしないのであれば、全員がサボるのではないか?」といった指摘が考えられるが、近年の研究では「3割を補助の労働力として維持するのが最適解であるため」という一定の結論が出ている。

www.nature.com

 

ただただ、得への効率性の追及は、より単純な生物の方が顕著となるという事だ。

 

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活動の幅が広い虫が最も得に敏感な生き物である気がしている。「へんなものみっけ」より

 

 

そんな損得回路から切り離されているのは物理法則ぐらいではないだろうか。

重力は損得に縛られず、摩擦もまたしかりである。

 

化学も切り離されてるのでは?と言われそうであるが、化学結合や分子間力なんかも言うなれば原子レベルの物理法則である。

 

物理現象として平衡状態を保とうとするが、それに対抗して「得をする」ためにイオンチャネルやら抗原抗体反応のような機構が発現していると推測している。

 

病気の起因やあるいは薬等の作用も、酸化や紫外線劣化等の自然劣化や、食品やアルコールの接種といった外的な因子を除くと、何らかの機構が得だと「騙され」て発生している。



一見して損をしているようで、実際は得を取っている行動の代表的なケースをいくつか挙げると、

 

例えばいじめられっ子が万引きを命じられるようなケース。

 

いじめられっ子に道徳心があれば非常に心が痛むし、間違いなく気持ちの良くない事であるが、この場合はもしも行わなければ更に損をする予感、あるいは確信があるから実行する。

 

すなわち大きな損より小さな損を取った方がマシであり、その瞬間はより得と認識している。

 

ここに長期的な視点、あるいは別の選択肢が挟まればその限りではないが、無理矢理損な事をやらされる図式はいつも裏にもっと損になる未来を認識しているのである。



例えば詐欺に引っかかっているケース。

 

三者から見て明らかに損という状況でも、当人から見ればその瞬間は得と感じているから乗るのである。



例えばギャンブル。

 

得か損かは不確定だが、その先に莫大な得が待っており、損をする未来の自分を忘却したのであればベットするその瞬間は得である。

 

仮に損をすると分かっていたとしても、その瞬間の気持ちよさがトータルでプラスであればやはり行動を起こした時は得である。



いくらアルコールを入れようが、いくら覚せい剤を入れようが、仮にうっすらと身体がボロボロになると分かっていたとしても、その瞬間がより得と認識しているのであれば人間は損得回路に従って行動する。



ありがた迷惑という損は「良かれと思ってやった」と口を揃えて言う。

どう考えてもクソみたいな行動も本人的には「得」だからやるのである。




・損とは何か。

 

得の逆、すなわち気持ち良くない事である。



 

・得を持ってくる者、損を持ってくる者

 

極論を言えば人付き合いも必ず損得のみで回っている。

 

無償の愛には必ず裏に得をしている何か理由があるし、損な行動をする生物は存在しない。

 

たとえ「悲しむ姿を見たくない」といったような何とも聞こえのいい理由も、ただの自らのメンタルバランスを崩さないためのリスクヘッジである。



ただし、人によって物事に対する得の感じ方や損の感じ方は様々だし、少しでも得と感じれば行動する人間もいれば、大幅に得と感じなければ行動しない人間もいる。

 

その辺の大小は「過去にどんだけ大きな得を食べて来たか」にかなり依存する。

得の大飯食らいは少量の得には反応しないし、飢餓状態の人は少しの得も貴重である。

 

負債があまりに大きすぎる場合は、小さな得を得たところで反転はしないので大きな得しか興味が無くなるような場合もある。




お互いに異なる得意分野に力を出し合う事で、各々得を得る場合はWIn=Winの関係であり、理想の関係性と言える。

 

目指すべきはそこであるが、言うは易し行うは難しである事は否定できない。

 

もちろんWinは金銭的な得ではなく、先述の通り結果としての「気持ちよさ」の得である。

 

優越感みたいなものももちろん得だ。

自分がその人に対してどんな感情を貰っているかも考慮した方がいいだろう。



注意すべきは一点のみ。

損を持ってくる者の見極めである。

 

損な立ち回りをする際は必ずその後に返って来る得の大きさに期待しての事である。

そんな省エネな得の投資ならどんどんすべきであるが、返って来る見通しの無い投資はすぐにでも切るべきだ。

 

最初はお互い得となる関係性を築けていたとしても、時間の経過によって関係性は変化し得る。

書き方は悪いが、定期的に自分の損得収支は勘定した方が良い。



最も危険なのは得を忘却する者である。

忘却する者への投資は感情も含めて、全て返って来る見込みが無いので意味を全く為さない。



なお、人間は結局気持ち良さに執着しているという話は「シャブセックス理論」に

mekasue.hatenablog.com

 

メンヘラは「得」を忘却する存在であるという言説については「バーチャルYoutuberはパーフェクトメンヘラストームを引き起こすのか」という記事で言及している。

mekasue.hatenablog.com

 

 

 

・損に打ち勝つ力

 

ではいつから人間はそんな損得回路で動いてるかというと、恐らく産まれたその瞬間からである。

 

ただし、そもそものところで得かどうか認識できる情報を持ってなければ損得も判断不可能だ。

 

ではそんな損か得か判別不能な時に働いている機能は何か?

 

それは好奇心であると考えている。

言い換えると「楽しそう」だと感じる心である。

 

未知の物事は損とも得とも判断が出来ないが、「楽しそう」であればそれが上乗せされて得と判断出来る。

 

損に打ち勝った後に待っている新鮮な体験は新たな「気持ちいい」を産む土壌となるため、なんだかんだで未知の物事の先に待っているのは大体は得である。

 

結果的に「気持ちいい」が手に入る必ず勝てるギャンブルであれば、誰もがベットするだろう。

 

そんな未知に賭け続ける心こそが目に見えるリスク、すなわち損に打ち勝つ方法である。



そうして未知の物事をするのが得だと判断した子供は次々と新たな物事に取り組む。

そこには損より大きな得しか存在しないのだ。



しかし、30代からは人生においては大体自分の能力の限界が見えてしまいそれ以上は中々上向かないという話がSNSで散見されている。

 

動かなくなった点こそが実質的な死であるという。

 

あれは一体どういう状況だろうか?



損として予見できてしまう消費される金銭、時間、体力といった要素に対して、手に出来る得がこれまでの経験上で上回らないのであれば身体はそもそも動かない。

 

特に30代は体力の衰えを実感し、社会的な事情で金銭も伸び悩んでいるというのが現状である故に、予見が悪化の一途をたどっており、一層拍車をかけていると思われる。



「30代での停滞が人間の実質的な死」であるという意見の根幹は、「人間が損と感じる行動は絶対取らない」という原理に基づく。

 

得であるのは生命活動の継続維持継続くらいなもので、いつしか生命活動の継続が損だと衝動的にでも判断した時に終わりは訪れる。

 

 

また、仮に思考により凝り固まってしまった状態でも、損に打ち勝つための手段として「時間的制約をつける」という手法も存在する。

 

判断をするには時間を要する。考えれば考えるほど様々な要素が出てきて、損であるという確信が増していく。

 

仮に判断速度を1秒とかにすると、損と判断するまでに至らない。

思考放棄とも言えるが、明るく生きるコツは案外ここにあるのかもしれない。