神の正体を考える

これまでのダラダラとした長文に比べたら割と短文となる。


と、いうか一生考えないといけない題材なので、その時々によって付け加えていった方がいい話であるのでここまでで書き殴っておくことにする。

 

ここのところ「神とは何者か」という疑問をぐるぐると回しており、一定の結論が出たのでこの文章を書くことにした。

 

神 - 人間を超えた存在で、人間に対し禍福や賞罰を与え、信仰・崇拝の対象となるもの(三省堂大辞林より)

 

僕の今のところの結論としては、神とは「与えてくれる何者か」である。

 

神が与えてくれる物は何かというと、まぁ色々だろうが基本的に利益となるものである。

 

よくバチ(罰)が当たると言われるが、現代ではこの用法で使うのは他人にバチが当たって自分が優越感みたいなものを得られる時だけだと思うし、実際に自分に来た時は「試練を与えられた」とかなんとか解釈する。

 

本当に罰が与えられたら大体神を神と認めなくなっているのではないか。

まぁこの辺は少し後に書くとする。

 

これから先の文章は、神の名前をいちいち出すと変な問題が起こりえるので、ありとあらゆる宗教観が混ざり合うよく分からん文章になることをご勘弁いただきたい。


さて、古くからの神の仕事は何なのか。

 

最初は大地を、命を「与えて」くれた。
人類として農耕が始まると、恵みの雨を「与えて」くれた。
災害から土地を「守って」くれた。
占いによって様々な事柄を「判断して」くれた。
神によってはパンとブドウ酒を「与えて」くれたり、行動規範を「与えて」くれたりした。

 

色んな恩恵を「与えて」くれた神様は今は何をやってるんだろう。

 

インターネットぶらついてると様々な場面で「神!」と呼ばれてる人々がいた。

発売前のジャンプのハンターハンターを「与えて」くれた神
クオリティの高いエロ絵を「与えて」くれた神
便所の紙が切れてたら上から「与えて」くれた神もいるだろう

 

まぁ一部のリテラシーの無い神は逮捕されてしまったが、逮捕されてなお痴漢を試みて再逮捕され、面白いネタを「与えて」くれた神もいたりした。

 

このように最初にも書いたが、古くから現代まで「神」とは「与えてくれる者」に対して使用される言葉であり、何故かそれが一貫している。

 

非現実的な存在な存在を示す言葉であれば、「神」でも「悪魔」でも「天使」でもいいはずなのにだ。


特に無償で大きなメリットを与えてくれるなら凄くいい神だ。
メリットがデメリットを上回っているならなかなかいい神。

 

逆に奪っていく者は鬼や悪魔となる。

 

路上で「神待ち」をする女の子達は金銭や逃避先を「与えて」くれる人を待っているのだ。
多分第3者的に収支勘定するとその一見神な人は大体悪魔なんだろうけれども。


さぁ、意識はしていないだろうが、この理屈でいくと日常の様々なところに神と悪魔は出没している。

 

真っ先に出てくる神または悪魔は両親であろう。
その内できる友達も神だったり悪魔だったりする。
様々なコンテンツを与えてくれるテレビはやっぱり神だったり悪魔だったりするし、このインターネットもやはり神だったり悪魔だったりする。

ソシャゲは大体悪魔なんじゃないかなと思う。

 

メリットデメリットだけで神か悪魔かを判断するのであれば、この世に存在する全ての物事が神か悪魔に大別が可能であるのではないかと考えてる。

 

ただ、目の前の物事の正体が本当は「神」だったか「悪魔」だったのかはなかなか分かりはしない。


いずれも「与えてくれる者」であるのは確実なのだが、同時にどれだけのものが奪われていて、それが与えられた物より価値があるのかを推測できるか、すなわち「神」か「悪魔」か判別できるかは完全に事後確認である。


ただ、目の前に現れた正体不明の物事に対して「これは神だよ」だったり「これは悪魔だよ」と囁いてくれる神が存在する。

 

それが「自分の判断を行う神」である。

 

現代においてここを司る最高の神はgoogleじゃないかと思って検索したらまんまそんな感じの記事が出てきたくらいにはあるあるな話っぽい

 

tech.damonge.com

 

 

この神こそが基本的に自身の行動規範となる。

 

赤子の状態で森で育たない限りは、最初の神は大体親であろう。

 

やがて世界が広がるごとに自分の中に住む神は増えていく。

 

今自分に何かしらのインプットが与えられた場合、そのアウトプットはこれまでに住み着いた判断する神々達(いくつかは悪魔として途中で捨てられている)の総合判断である。

 


ここまで文章を読んできた貴方に問いかけたい。

 

じゃあ「自己」はどこにある?

 

私が思うに一般論において語られる自己は不特定多数の神による判断を出力するただの出力機である。

 

当然私自身も同様である。私はただの不特定多数の神による判断を出力するただの出力機に過ぎない。


自己とは何か?

 

私は自身が数多いる神の判断を抽出して総合的に導き出した"判断"こそが自己の形であると考える。

 

しかしやはり私はただの出力機の一つであることは否定しない。

 

多分自己とは私の後ろにいる集約した神の形であると私は考える。


自己の確立とは神の集約と形成である。


後はこれらを補強する理論と否定する理論を集めていきましょう